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最高裁判所第三小法廷 昭和54年(あ)2285号 決定 1981年2月20日

主文

本件各上告を棄却する。

理由

被告人両名の弁護人加藤堯の上告趣意は、憲法三一条違反をいう点を含め、実質は事実誤認、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

なお、原判決の認定した事実によれば、被告人小野は、秋田県八郎湖の東部承水路において雑建網漁業に従事するものであるところ、同承水路に設置されていた鯉の養殖業者の網生けすから逃げ出し付近に設置されていた被告人小野の雑建網の中にその日のうちに入り込んだ錦鯉及び緋鯉約六〇キログラム(一尾の重さ約一キログラム程度)を、付近の養殖業者の網生けすから逃失した鯉であることを知りながら捕獲して被告人鎌田に売り渡した、というのである。ところで、八郎湖のような広大な水面に逃げ出した鯉は、飼養主においてこれを同収することは事実上極めて困難な場合が多いと考えられるが、そのことのゆえに右鯉が直ちに遺失物横領罪の客体となり得ないと解すべきものではなく、被告人小野において右鯉を他人が飼養していたものであることを知りながらほしいままに領得した以上、同被告人について遺失物横領罪が成立するのは当然であり、これと同旨の原判断は相当である。

よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(横井大三 環昌一 伊藤正己 寺田治郎)

弁護人加藤堯の上告趣意

第一点 <省略>

第二点 原判決には法令解釈及び事実認定に重大な誤りがあり、これを破棄しなければ著しく正義に反する。

一、第一点で既に指摘したとおり、原判決は遺失物横領罪の解釈を誤り、本来同法の行為に該当しない事実についてこの成立を認めた重大な誤りがあり、これは右罪について、未だ最高裁判所の先例がなく明確な解釈がなされていないことにも基因するものであるので、御庁として本罪の成否につき、明快な判断が下されるべきものと思料し、上告趣意の一つとして指摘するものである。

二、(一) 御庁の判断を仰ぐ事項は、要約すれば極めて単純な二つの事に集約されるのである。即ち第一は民法一九五条の他人に飼養された家畜外の動物(養殖鯉)が、養殖者の追求不可能な湖沼等に逃失した場合にこれが刑法五四条の遺失物横領罪の客体となり得るか否かということ、第二はそうした逃失魚を県知事許可を受けて漁業している者の網に捕獲された場合にその捕獲した漁業者はこれを処分することが禁止され、処分し或いは自己の物にすると横領罪の不法領得行為に問われるのか否かという問題である。

(二) 原判決はこの二つの点に関し、いずれも肯定的見解をとつているが、被告人を始めてとして一般国民の「何故捕つた魚を自分の物にして犯罪になるのか」というごく素朴で自然な感覚と余りにもかけ離れており、こうした国民感情と遊離した判断だけでも原判決の基本的誤りが浮かび上がるのであるが、以下に述べるとおり、原判決の右の判断は明らかに誤つたものであり、被告人は事実が真実であつてもそもそも罪とならない行為について有罪とされた重大な誤りがある。

三、(一) 原判決は民法一九五条の適用を受ける人に飼養された家畜外の動物で他人の逃失させた鯉について

1 占有開始時に善意で逃失から一ケ月以内に飼養主から回復請求を受けないときにはその所有権を取得する

2 占有するに至つたことを官に届け出る義務や所有者の回復請求がないのに敢えて返還するまでの義務がないことを認めるが

3 養殖鯉を逃失させた者のこれに対する所有権は逃失より一ケ月の間なお存続する

4 大潟橋北側の八郎湖東部承水路で養殖している者は四人しかなく、被告人小野はこれらの者の網生けすの近くに雑建網を仕掛けているので本件色鯉が建網に入つたのを認めたとき、右四名のうち誰かの網生けすから逃げ出した鯉であることは直ちに察知できたのであるから、前記のとおり法律上の返還義務はないにしても同じく漁業を営む八郎湖増殖漁業協同組合の組合員として、これら四名の者に色鯉逃失の有無を確める等してその所有者に回復請求の機会を与えるのが同業者の信義に副うところと解される。

として特定性のない真鯉は別として、本件のような色鯉まで逃失者の所有権を直ちに否定して無主物あるいはこれに準ずるものとし、刑法二五四条の客体に当たらないということはできないと結論している。

(二) 所有権の帰属と刑法二五四条の客体になるか否かの問題と直ちに結びつけて考察すべきものか、別個に論じることも可能であるのか、両方の点から論ずる。

(三) 無主物が右の客体に当たらないのは当然として無主物か他人の所有物かを問題とせず、いずれにせよ本条の客体に当たらないとする議論も可能である。

第一・二審を通じ議論されていることであるが、湖沼や河川に逃失させた養殖魚は飼養主はこれを自らの手で追跡し回復することは物理的に不可能であり、逃失と同時にそうした動物に対する一切の支配管理能力は喪失しているのである。それは逃失した魚が真鯉か緋鯉か、特定性があるか否かの問題以前のことである。管理支配が全く不能であり、追跡回復することが不能な物について、逃失者の権利を認め、計算不能なくらい低い確率の状況下において全くの偶然性ゆえに他人の占有支配になつた物について刑事罰を課してまでその保持及び処分を禁じて保護しなければならない程強力な所有権を認めなければならないものであろうか。それも偶然性ゆえに支配するところとなつたと述べたが、占有した者はその物が他人の物であると認識して不法な意思で占有下に納めたのではなくて、漁業という営業意思の下で自ら仕掛けた網で捕獲した物件についてである。捕獲者からすれば無差別に捕える意思で仕掛けを作るのであるが、逃失させた側から見ればそれこそ奇跡に近い偶然性で捕えられたことになる――この様な魚の所有権について、民事上の追求権、損害賠償の成否は別として、刑事罰をもつて処断してまで保護を与えなければならず、逆にそうまでしなければ法秩序が維持できないものであろうか。甚だ疑問である。

(四) 従つてかかる物が本条の客体に当たらないと認めることは法秩序全体の中で判断しても何ら不合理ではなく、所有権の帰属は別個に民事的に解決すれば良いことである。

(五) また所有権の帰属を論じないで本条の客体となるか否かを論じることが不可能であるとするならば、本件のような物は無主物あるいはこれに準ずる物として客体にならないと結論づけられるべきものである。

(六) 前述して来たとおり、逃失鯉の占有取得者は何らの法律上の返還義務もないし、遺失物法の定めるような届け出義務もないし、逃失者は完全に支配管理能力を失い、奇跡的な偶然性に期待する外この回復可能性も絶無である。飼養者は逃失させた日から一ケ月間所有権を存続するという民法上の一般条項はあるが、その実現可能性は零に近い。しかも占有者或いは捕獲者はこの物が占有開始時に逃失後一ケ月経過した物か否か確定することは全く不可能であり、直ちに所有権が帰属する物件か尚数十日は回復請求を受けるか知ることができない。しかも捕えた物は生き物であり、生命力も強くない物であるから緊急の処分が必要である。捕獲者に対し一ケ月以内の物件か一ケ月経過物件かを検査調査させ、所有者というより逃失者を捜索する信義則上の義務等を課し、何らかの拘束を義務づけるならば、捕獲者はこの義務を免れる最も手つ取り早い方法即ち捕獲物の解放・放置・廃棄・抹殺の方法をとることは目に見えており、それこそ民事上の損害を生ずるところであり、法の目的が裏目と出ることは明らかである。もつとも原判決はこれをも犯罪行為と言うのであろうか、それとも他人への売却等の処分のみ犯罪であり自己の物にする意思や廃棄物は別個に論じ(例えば器物損壊罪等)ることになろうか、解放は何罪となるのであろうか。

(七) また本件の客体に当たるすると右のとおり極めて不合理な事実が現われると共に次のとおり本件の構成要件が全くあいまいとなり法秩序の安定性を欠くに至るのである。原判決自ら判示するように同じ逃失物でも真鯉は特定性がない故に本条の客体に当たらないとし、特定できる鯉は客体となるというように同じ魚でも区別を設けることとなつているが、果してこの様な区分が合理的な説得力を持つであろうか。特定できるというその特定性も原判決は、第一審で検察官の本位的訴因である錦鯉を否定し予備的訴因である緋鯉と認定した判決で検察官が何ら控訴の申立もしていないのにも拘らず職権で予備的訴因を排斥し本位的訴因を無理矢理認定したうえでの特定性であり、かかる実質的には訴訟手続に違反する強引な事実判断無用な事実判断を前提としなければ維持できないような議論なのである。緋鯉なら何処にでもあり真鯉からでも一割位の確率で発生するところから第一審の予備的訴因では何としても原判決の論理は薄弱なため、被告人(第一審弁護人)のみの控訴事件において、控訴趣意にも主張のない事実について原審は職権証拠調を続け、第一審の予備的訴因の認定本位的訴因の排斥を破棄して第一審判決の事実誤認を職権で認定し、その結果本件色鯉(錦鯉を主体とした色鯉という奇妙な事実認定をしている)は特定できる鯉であるという論旨である。この様なあいまいな基準による特定・非特定の物に区分し、一方は客体となり他方はこれを否定するという合理的理由はない。また一ケ月以内か否かで犯罪の成否が左右されるというのもそれが捕獲・処分時には全く不明なのであるからこれまた重要な事実関係が不明確な基準に左右されることとなる。その他細かく指摘するまでもなく、本件のような魚を本条の客体となると判断することは、本条の構成要件を不明確にし極めて危険なこととなることは明白である。

(八) 以上の次第で、民法一九五条の適用を受けるような物の中でも、とりわけ広い湖沼等で飼養されているような養殖魚の逃失物については、刑法二五四条の客体に当たらないものと解するのが合理性と妥当性をもつところであり、原判決の判断は明らかに誤りである。

四、(一) 次に漁業者が捕獲した魚の処分と不法領得の成否の問題である。原判決は捕獲できるのは無主物の魚に限るのであり、特定できる他人所有の鯉まで及ばない旨判示し、捕獲物について漁業者に対し制限を加えている。

(二) 原判決の言う特定できる他人所有の鯉とは、当然それ迄の論旨からして逃失後一ケ月以内の鯉に限られると解されるが、何度も指摘するように、鯉には一ケ月以内の逃失魚か一ケ月以上経過した魚なのかの目印は何もついていないのであるから、色鯉を捕えても或る場合には犯罪が成立しないという極めて法的安定性を欠く結論となる。しかもそれは行為者の意思とか行為の態様によるものではなく、誰もが判定不可能な「捕獲時の魚の逃失期間」という要件によつて左右されるのである。それは誰が何日どの段階で判断し捕獲者はこれをいかにして認識すれば良いのか――これは誰も判定できない事実である。そうすると捕獲者が犯罪者になりたくない場合には、原判決の言うように信義則により逃失者を捜し出す努力をし一ケ月以内か否かを調査するか、かかる手間を嫌う者は惜しくとも捕獲した魚があやしい場合には自然の湖沼へ返してやるべきであると結論づけられてしまう。

(三) 仕掛けた網に入つた魚の所有権は漁業者に何日帰属するか、魚が網に入つた瞬間か、網を引き上げて船や陸地に上げて完全な支配下に納めた時か、しかしここでも原判決は区別し一部は所有権が帰属しないという。魚を捕獲するというのは漁師の腕により差異が出るのであるが、仮に最も腕の良い漁師と言えども広い湖沼へ抜け出した元飼養されている魚を捕獲する確率は数値とならない程低いものであることは誰も疑いはしないであろう。そうした零に近い確率で捕獲した物件にまで差別を設け或いは魚に区分をなし、これは無主物あちらは他人所有物と分類し、一方には犯罪の成否まで含む厳しい捕獲制限若しくは捕獲物の処分禁止を命じることの妥当性はどこにあるのだろうか。逃失魚は捕獲されないのが自然界の常識であり、捕獲されるということの偶然性に依り所を求めるような刑事論理を果して国民が納得するであろうか。有り得ないような偶然性でたまたま逃失させた魚が他人の手に入つた時、通常の逃失者は捕獲者と共に喜び全く自然界へ戻るよりは幾分でも人の役に立つことを感謝するのが道理であり、奇跡が起きたらその利得者を恨み自己の権利を主張し処罰を求めるのが不合理であることを自覚すべきである。そのうえでかかる奇跡者の好意善意により再び逃失物に近い物(同一性を確定することは不可能である)が手元に戻るならばそれこそ幸運の持ち主であろうし、戻らないことを持つて自己の逃失の責任をそつちのけにして他人を非難することは正当ではない。

(四) 適法な漁業と言えども無主物の魚の捕獲に限定されるという原判決的論理は一見正当のようにみえるが、それが現実を無視した机上の空論に過ぎず、道義的或いは感覚的には支持されるとしても規範としての合理性は認められない。民事的に解決されるべき問題を無理に刑事罰の対象にしようという疑いが払拭されないのである。漁業を営む者は捕獲魚を全て自己の所有物と認識して網を仕掛けるのであるからその後に不法領得の意思が生ずる余地もない。

(五) 以上のとおり原判決は刑法二五四条の解釈において重大な誤りが認められ、これをもつて既に著しく正義に反することは明らかと言うべきであるが、更に次項以下に原判決の重大な誤りを指摘し、御庁の適格な判断を求めるものである。

五、(一) 原判決は既に指摘したように、第一審判決が検察官の本位的訴因を認めず、予備的訴因について有罪と認めたのに拘らず、職権証拠調をしてまで、控訴申立人である被告人が控訴趣意に記載しない事実で被告人にとつて不利益な事実(即ち第一審は本件捕獲鯉は緋鯉であるとの予備的訴因の認定に対し、原審は錦鯉を主体とした色鯉と変更した)を認定し、これを根本的基礎事実として論理を構成していつた。

(二) 刑事訴訟法の不利益変更禁止の原則(同法四〇二条)は、主文に限られ理由には及ばないと一般的に解されている。しかし本件は第一審が予備的訴因について有罪とし検察官控訴がないのに原審は本位的訴因について実質的有罪を認めたものであつて被告人に対し全く防禦の機会も与えない不意打的事実認定であつて著しく被告人の防禦権を奪い去つたばかりでなく、原判決の控訴棄却の判決の根底をなす事実が右の変更事実なのであるから、極めて不当な事実認定であり実質的には不利益変更と同視できるものである。

(三) そして第一審判決が同審で取調べた証拠からすれば、この認定が極めて合理的であり、原審が同審で取調べた二人の証人等の証拠調をもつてしても、これを覆えすだけの合理的根拠はなかつたものである。しかし原審の論理はこの事実関係では維持できないことから、被告人に対する不利益変更であることを承知のうえ無理に事実認定を変更してしまつたものである。控訴審で、被告人は、本件の被害者と目される遠藤剛太郎があく迄も自己の逃失させた鯉が錦鯉であると主張し自己は錦鯉と緋鯉との相違を認識できると主張し続けるならば、それならば第一審判決は遠藤には錦鯉は存在せず緋鯉に過ぎなかつたのであると認定している以上、被告人小野の捕獲した色鯉は遠藤の逃失させた鯉とは認められず、この意味において第一審判決は事実誤認をしている旨主張したのであるが(原判決五丁裏乃至六丁表)、これに対する原判決の判断が前記のとおり被告人に不利益な事実を認定して右主張を排斥したものである。ところで本件記録を一読すれば、被告人小野の捕獲した色鯉は錦鯉ではなく全くそれと比べて価値の低廉な緋鯉であるということは明らかである。従つて論理を逆転させ、仮にこれが真実遠藤の逃失させた鯉であるとするならば遠藤は虚偽の被害届を出し偽証をしていることになるし、あく迄も錦鯉であると言うのであれば捕獲魚は明らかに遠藤の鯉ではないということになる。そして本件記録から明らかなように遠藤の証言や被害届に絶対的信用を置けないことは顕著である。こうした事実関係が認められるにも拘らず、原判決は敢えて前記のように最も被告人に不利益となるような不当な事実認定をなし遠藤の主張を全面的に信用したのは完全なる事実誤認と断定できるところであつてこれは著しく正義に反するものである。

(四) 原判決は右の事実の変更認定について、第一審判決が事実誤認をしているがこの誤認は判決に影響を及ぼすものとは解されないと判示しているが(七丁裏)、被告人の右の趣旨の事実誤認の主張について被告人に不利益に変更しながら判決に影響を及ぼさない等という論旨は独断であつて論理が逆転しているものである。被告人の主張に対し第一審判決よりも有利な事実を認定しながらこれが判決に影響を及ぼさないというのが正常であり、原判決の論旨はこれとは明らかに異質なものであり、前述のとおり原判決のこの不利益変更事実が原判決の理由づけの決定的根拠をなすものであるから、被告人の事実誤認の控訴趣意を逆手にとり事実認定を不利益に変更し、以後これを基礎にして論理を進めるというのは極めて不当な審理であると言わざるを得ない。

(五) 以上のとおり原判決は事実認定及び訴訟手続においても著しく正義に反しているものである。

六、以上の次第で原判決が被告人小野勇吉に対する遺失物横領罪の成立を認めた第一審判決を維持した判断をなしたことは明らかに違法であり、同人は無罪とされるべきものである。同人に対する遺失物横領罪が成立しない以上、被告人鎌田鉄之助に対する賍物故買が成立しないこと明らかで同人も無罪とされるべきものである。

よつて第一・二審判決を破棄のうえ被告人両名に対し無罪の判決を賜りたい。

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